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2024年10月07日
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「それでも人生にイエスと言う」を読んで 2

2011年06月15日
「Ⅱ 病いを超えて」を読んでの感想

この部分では「創造価値」、「体験価値」、「態度価値」のうち、
特に「態度価値」に焦点が当てられていたと思います。



◆苦悩することで成長。苦悩を切望する状況

著者は、苦悩によって成長するという点を指摘しています。

自分がエホバの証人だった時に経験した苦悩を通じ、
エホバの証人ではない人とはまた何か違った価値観や感じ方を持っていると思いますし、
それがいつか何かに役に立つ可能性もあるのだな、と再認識しました。

強制収容所では食べるものなどについて心配しなければならず、
もっと人間らしい苦悩や問題、葛藤を経験できる状態を切望したといいます。

そう考えると、人間らしい悩みや問題を抱えること自体、
とても幸せなことだと思えてきます。

一方で安定した、なるべく心配のない状態を求めてしまう自分もいます。
確かに心配がなければないでいいのかもしれませんが、
このご時世何が起こるか分かりませんし、
安定なんて有って無いようなものですから
悩みがあるというのは幸せなのだという考え方を身につけておいたほうが幸せになれそうです。

同時に、本当に完全な安定を手に入れてしまったら、
それは果たして人間らしい状態なのだろうか、と考えさせられました。

課題に取り組んで解決していくことこそ人間らしいと思います。



◆「創造」「体験」では意味を見いだせない状況でも「態度」でなら意味を見いだせる

死ぬ直前でも人を気遣った広告デザイナーの話を読むと、
たとえ死が近くなってたいしたことができないような状況に思えても、
人間として素晴らしい態度でいることは本当に素晴らしい、意味のあることだと思えました。

また、「外面的な成功と内面的な成功」については、
「生きる意味を内面的に実現」すれば、それは確実に到達したものだ
ということが印象に残りました。



◆「世界全体は無意味か、それとも意味を超えているか」

これはこの本で取りあげられていた質問のうち、答えの出ていない質問です。
確かに「人生から問われている」なら「人生」のさらに上のレベルって?
と考えてしまいます。

著者によると、この質問のどちらを支持しようとも根拠は全くないというのです。

でもやはり自分としては後者のほうがいいと思います。
突き詰めればどうせなにもない、なんて考えてしまうのは
世界があまりにもったいない(いい表現が浮かばないです)と思うからです。

これはもういくら論理的に考えたからといって答えが出るわけではないので、
どちらを取るかは自由です。でも、やっぱり自分は「無意味」だとは思いたくないです。

(3へ続く)
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「それでも人生にイエスと言う」を読んで 1

2011年06月13日
まず始めに、「それでも人生にイエスと言う」(V・E・フランクル)を紹介して下さった
ゴリさんともう一人匿名の方に心から感謝したいと思います。

全体の感触としては、哲学とか形而上学といったものがあまり得意でない自分にとって
やや難しいかなという感じを受けました。

でも、一番いいたかったことはしっかり伝わってきたと思うので、
読んだことの価値はかなり大きかったと思います。

ここ2年くらいは全く死にたいという気持ちにならずにすんでいますが、
(ってことは2年以上前はやばかったんかいって話になりますがそこは置いといてもらって、笑)
またこれからいつか人生のどん底にいるように思えるときにはきっと役立つと思いました。

そういう意味でも、今回読んだことを一度は吸収するために、
思ったことはしっかり書いておきたいと思いました。



「Ⅰ 生きる意味と価値」を読んでの感想



◆人生の意味は問うてはいけない

人生の意味を問うことは、してはいけないことである、という話。
以前に幸せだったら問わないだろうと書いたのを思い出しましたが、
逆に問わないなら幸せを感じられるのかもしれないとも思えてきました。
今のところ、その両方が正しいような気がします。

一般的に快と不快では不快を感じることのほうが多いという統計。
辛いことがたくさんあっても別にいいんだ、
辛いことがいろいろあっても別に自分だけが
特に何かおかしいわけではないということです。
文章にはなかなかうまく表せないのですが、なんだかほっとしたような気がします。

…というのが、Ⅰを読んですぐ後に書いた感想でした。



◆「人生は私になにを期待しているか」

でも、本の最後の解説まで読んでやっとはっきりしてきたんですが
Ⅰの、いや、この本の一番大事なところは、
人生に「問われている」というところだと思いました。
はじめ読んだときは、「問われる」って何だ?と思いながら
あえて気にせず読み進んだんですが、本の最後まで読んでやっと解りました。
ここで挫折しなくてよかったです。(笑)

「われわれは人生から何を期待できるか」と自分を中心に考えると行き詰まりますが、
その考えを、「人生は何をわれわれから期待しているか」と
「コペルニクス的に」転回すると最悪の状況下でも耐えぬくことができるといいます。

「人生の目的は何か」、「なんで生きなきゃならないのか」、そんな問いはきっと
前者に入ってしまい、これは幾ら問い続けても問い続けても答えは出ません。
自分が期待しているだけでは、ひどい状況になれば挫折してしまうというのです。

そんなときこそ、「人生は私になにを期待しているか」
「人生のどのような仕事が私を待っているか」と問うようにしたいです。

そして、この問いをすることで「未来がないように思われても、こわくは」ない、
「現在がすべて」になるわけなので、今できることは何か、
今すべき事は何なのかということだけを考えればよくなるという部分も印象に残りました。

確かに、そのとおりだと思います。
「人生の目的は何か」っていうのは、将来を悲観するから出てくるのであって、
「人生は私になにを期待しているか」と問えばいまに集中でき、
自ずと「人生の目的は何かとも」考えなくなり、将来も怖くなくなります。

ここまで書きながら「人生は私になにを期待しているか」と自分に問うてみると、
なんだか今まで積み上げてきた人生観が
自分を温かく包んでくれるような気持ちになってきました。
今自分がすべき事、いや、できることが分かる質問のような気がします。
人生が求めてくることですから、自然に行動に移せるような気がします。

この問いの「人生」って何かとてもすごいものな気がしてます。
それは自分の中で作り上げてきた「人生」に対する理想なのかもしれません。
この問いを自分に投げかけると「こうあれたら一番いいな」と考えてしまうからです。
これがあとで出てくる「良心」に関係してくるのかな、と、今思いました。



◆活動範囲の広さじゃない

やっぱりすごいことをやっているように見える人って価値があるように見えます。
それと比べてしまうと自分ってどうなんだろうと思ってしまうこともあります。

でも、大切なのは「活動範囲において最善を尽くしているか」ということです。
「各人の具体的な活動範囲内では、一人一人の人間がかけがえなく代理不可能なのです。
だれもがそうです。」という言葉からとても元気をもらいました。
頭では分かっているんですが、つい普段の生活に追われると忘れがちです。

Ⅰでは特に「創造価値」、「体験価値」について知ることができました。

(2へ続く いつ書くか分かりませんが…笑)
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