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2024年10月07日
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『「自分のために生きていける」ということ』を読んで 3

2011年07月18日
この記事はめっちゃ長いです。
ついでに、JWや親のことを結構批判しているところもあるので、
そういうのが嫌いな方は読まないほうがいいかもしれません。



◆「社会自体が病的にゆがんでいる」。それに合わせようとして自分自身の欲望を見失う

以前から、過労死するまで働く人の話を聞いたりすると、何かが違うと思っていました。
もっと大切にしなきゃなんないものとかあるだろう、と思うわけです。

それってどういう状態かというと、この本の言葉を借りれば
「自分の意志を放棄し、『他人のために生きる』ように強制する社会」(p.44)
に人々が「嗜癖」しているということです(「嗜癖」≒「依存」)。
こうして結局は自分自身の欲望を見失ってしまうのだそうです。

これにはなかなか共感できました。
自分のしたいことがない、分からないというのは、それまで何かに依存して、
それに合わせることしか考えてこなかったからだと思うのです。

それで僕も、エホバの証人を辞めたあとは
果たして自分はいったい何をしたいんだろう、という気持ちになったのでしょう。

そして、エホバの証人ではなくても、社会からのけ者にされないようにするために
社会に合わせ、自分のやりたいこと、自分の欲望を見失ってしまっている人が
かなりたくさんいるのではないかと思います。



◆「パワーゲーム」の戦い方(p.126~)

著者は競争を「パワーゲーム」と呼んでいるようです。

先ほど「社会自体が病的にゆがんでいる」という言葉に触れましたが、
そうやって社会を批判して現実逃避して終わり(これエホバの証人です)、
みたいになっていないのがこの本のいいところです。

著者は、生きていく以上そのゆがんだ社会で「パワーゲーム」に
参加しなければならないことを認め、その戦い方を教えてくれています。

それは、勝つことだけを目標にせず、その過程を楽しむっていうことです。
負けたら負けたでまた頑張ればいいや、と。
自分の本当にやりたいことならきっとそう考えられるはずです。

自尊心のない人は、つい数値化してものを測ってしまいがちなので
いつも勝ち負けを気にしてしまい、それはつまり周囲の人がすべて競争相手
であるということなので、結局人と仲良くなれないといいます。
これにはハッとさせられました。
確かに自分が楽しんでいれば、勝ち負けなんて関係なくなるはずです。
勝ち負けなんて関係ないと頭では考えていたものの
自尊心がないために結局自分が一番勝ち負けにこだわっていたのかもしれません。

「結果重視の価値観から降りたところに、
 本当の喜びがあり、本当のパワーがあるのです」
という言葉が心に残りました。



◆「やさしい暴力」(p.81)

親の期待を子供に押しつけてしまう、そういうことについての話です。

これ少し前の自分だなあ、と思うような文章が出てきました。

『「偽りの自己」を生きている人は、どこか自分でも「ウソくさい」と感じたり、
 人に媚を売ったり卑屈になっているような気がして自己嫌悪に陥ったり、
 自分の人生に満足感を得られないのです。』

ちょうど「小さな違和感」の時のような状況だと思います。
何かがおかしい、という感じ。
自分のやりたいことではないような気がする、という感じ。
それを既に発見できていたのがとてもよかったと思います。

この「偽りの自己」は、親の期待によりできあがることがあるといいます。
実際自分の場合もそうだったのでしょう。
エホバの証人であることを期待されていたのです。

子供はとても弱い。親がいなければ生きていけませんから。
多分自分も無意識下でそういうところがあり、
(また聖書の「親に従順に…」についてのエホバの証人の説明を真に受けていたところもあり、)
気づいたら親の思うとおりに生きてきたということなのだと思います。

自分もこの本にあるような「他人の期待を読み取ることばかり上手で、
自分自身の欲望が分からなくなってしまった子供」でした。
このように「偽りの自己」で身を固めてしまうがために、色々なサイトに書いてあるような
「死んだ魚の目をしたエホバの証人(の2世)」ができあがるのだろうなと思います。

そして、「本当の自分」「いきがい」を見出すのがなかなか大変になるといいます。
今の自分がそういう状態だと思います。

また、母親が子供にべったりになってしまうということの問題も取りあげられており、
うちではまさにそういう状態だったと思いました。

ついでに著者は、そういう親自身も実は他人の期待にそって生きてきたのでは、
と指摘しており、うちの場合もそうかもしれないなと思いました。
エホバの証人の宗教を信奉することも一種の依存ですので、
きっと母親も何かそういう問題を抱えているのだと思います。



◆怒る

著者は、両親への人生の早い時期の恨みがため込まれることが
寂しさ、孤独という状態につながると言っています。(p.114)

そして、恨みと鈍磨してしまった感情の処理には、「怒る」ことが必要だそうです。
「自尊心を奪い取っていたものに怒れ」(p.114)という部分によれば、
すべて自分が悪い、と思ってしまうことがよくあるそうです。
怒る対象を間違ってしまうとよくない結果になりそうだということが分かりました。

そこで、自分の「自尊心を奪い取っていたもの」、それはなんなのだろう、と考えてみます。

一つは、エホバの証人の教理だと思います。
一見平等主義のように見えて実はかなりの階級社会。
「特権」という言葉であいまいにされた階級が存在しています。
「長老」「僕(しもべ)」「開拓者」…。
ことあるごとにそういう「特権」を手に入れるように勧められますが、
それができる状況じゃない人はどうしたらいいというのでしょう。
さらに毎週の集会では「~するようにしましょう」「~すべき」ということが
いくつも語られ、真剣に学べば学ぶほど自分のダメな点ばかり見えてきます。
いつまでたっても受け入れられた感じなどしません。
そうした決まりもまた厳しすぎるものが多く、
努力すればするほど生活の様々な面で質が下がってしまうという悪循環に陥ります。
そして極めつけは子供を社会活動に参加しにくくさせる教えです。
世との交わりを避けるようにという教え、様々な行事に参加できない教え。
浮いたように感じる機会が(というか実際に浮いてます)多くて、
周りの人たちとの距離を感じることがすごく多い。
これでは自尊心など持てたものではありません。

そしてもう一つは、それを信じて実践した母も問題だったと思います。
母は僕がエホバの証人であることを期待していました。
僕がエホバの証人であることが一番の幸せだと考えています。
そしてエホバの証人の教えが正しいと信じて疑わなかったので
その教えに足りない部分を見抜くことができず、
僕の必要を満たすことができませんでした。
そして母自身、自尊心を持てないまま子育てに突入してしまったのだと思います。
エホバの証人の教えに依存して自尊心のなさを紛らしている状態の人が、
どうして自分の子どもに自尊心を持つ方法を教えられるというのでしょう。
自尊心が持てないのは自分も経験していることなので、この点同情してしまいますが。

ここで、さらにもう一つ、
自分で自分を縛っていたので苦しくなったというのもあるかなと思いましたが、
実はそれこそ自尊心のない状態にありがちな
「自分が悪い」と思ってしまうことなのかもしれません。
自分は特に十代後半以降は自分自身を何かの決まりで縛ってしまうことが多かったのです。
でもそれって、どうもこの本を読むと決まりへの依存という一種の依存で、
自尊心を持って生きる生き方を教えてもらえなかったことが根本原因にあると考えられます。
確かにこれからは自分で自分を縛ることのないように気をつける必要はありますが、
それでも根本原因は自分にあるのではないということを認識したいと思います。

さて、これで十分「怒った」と思います。なんだかすっきりしました。(笑)
きっと今ので、生き生きした感情に少し近づいたのでしょう。
考えてみたら、人間は怒って当たり前なんですからね。
僕は「怒らなさそう」だとある人から言われたことがありましたが、
裏を返せばそんな僕は実は生き生きしてないということだったのかもしれません。



◆「ほれこみ」(p.129)

「あなたがいきいきと喜んだり涙を流したりした…経験」
そういう「ほれこみ」の数が人生の豊かさにつながるといいます。
この体験を心の「預金通帳」に書き込み、死ぬときまでに
それをどれだけ増やしてあの世にいけるかが本当の勝負だということです。

これからはそういった経験を本当に大事にしたいと思いますし、
そういうことにエネルギーと時間を費やすことを惜しまないことが
とても大事なのだなあと思いました。
これって本当に自分の欲望ややりたいことに敏感でないと、
「ほれこみ」は発生しないわけですから、
自分の欲望ややりたいことは何なのか自問するのも大事になってきますね。

これがきっと「人生にイエス」の本でいう「体験価値」ですね。
少しあの本とつながってると思います。
あの本では「態度価値」が最重視されていましたが、それは「態度価値」でしか
人生に意味を見いだせないような極限の状態に焦点を当てていたからでしょう。
今の日本では別に明日飢え死にするような心配は全くないですから、
「体験価値」も同じくらい重要視しなければならない状況なのだと思います。
「態度価値」は、「創造価値」や「体験価値」を生み出すのに疲れてしまったり
または生み出せない状況にあったりする人のための
最後の砦のようなものなのではないかと勝手に思っています。



◆ほれこめる条件

それは、「まず自分自身にほれこむこと」だといいます。(p.134)

「ほれこむ」と言えばやはり恋愛がありますけども、
自己評価が低いとそれがうまくいかないという
以下のようなパターンが示されていました。

「あんなすてきな人が、私なんかを好きになるはずがない」と考える
 ↓
あまりみんなが手を出さないような人を選ぶ
 ↓
「仕方なく」で選んだ人だから、心から愛せない
 ↓
関係が緊張、破綻
 ↓
さらに自己評価が低くなる

これを見て、自己評価が低いってなんて損なことなんだろう、と思いました。
これまでは自分を愛することは後まわしというか全く考えていませんでしたが、
自分を自分で愛せていないと、結局どんな関係もうまくいかなくなってしまう、
ということがよく分かりました。

そんな様子をまとめたのが筆者のこの言葉。
「『私は十分、幸せだ』という自己充足をしている。…
 実は、そういう状態のときこそ、本当に他人を愛せるのです。」
人を幸せにしたいなら、まず自分が幸せになる方が先、っていうことですね。
自分が幸せじゃなかったら、結局他人に幸せにしてもらわなきゃならなくなるから。
今まで人間関係がうまくいかなかった原因が何なのかが分かり、納得できました。



◆自己肯定

著者は「自分の欠点を探し回るのはもうやめよう」(p.152)と勧めています。
この部分を読んで、自分の欠点に注目して自分をよくしようとしても、
結局行動できない状態になってしまうことが分かりました。

ここで、自己肯定を高めるトレーニングが紹介されています。
「自分はダメだ」という気持ちから解放されるためのトレーニングです。

「あなたは、鏡に映る自分の目をじっと見つめながら、次のように言えますか?

  あなた、ステキよ。それでいいのよ、そのままでいいのよ。
  あなたは人に愛されて当然だし、受け入れられて当たり前なのよ。

 もしいえないようなら、練習しましょう。」(p.156)

言えません、というのが僕の答えでした。
この文章が女性の使う言葉で書かれていたからです。

というのは冗談で(それくらいは柔軟性があります)、この文章を最初に読んだとき、
そうか、これを自分に言えるようになれば自信が持てるのか、と思いました。
そして、生き生きしてる人ってのはこういう前提で生きてるのだな、と。
やっと問題の核心部分に到着できたのだ、という感動を覚えました。

それで、早速男でも使える言葉に変えて書き出し(笑)、そいつを読んでみました。
読むのはまあなんとかできたんですけど、
実際鏡の前で自分の目を見ながら言うと、思わず笑ってしまいました。
照れくさいっていうかなんていうか、まあそんな感じです。
その後、何回か言っているうちにだんだん慣れてきました。
でもやっぱりまだ笑っちゃうことがあります。

で、日常で今までは引っ込み思案になっていたかもしれないような場面に遭遇したときに、
この言葉を思い出して、結局行動しちゃうという感じなんです。
積極的になれている感じです。

おもしろいですね。
自分はそのままでいい、と言い聞かせたので
自分の欠点に目が行かなくなってしまったんでしょう。
だからより積極的に人と関われるようになったのだと思います。

また、別の本で読んだんですが、人は、あることを口にすると
その理由を探しちゃうんだそうですね。
「自分はステキだ、そのままでいいんだ、愛されて受け入れられて当然だ」
って言うと、きっとその理由を探すようになるのでしょう。
自分にはこんないいところもある、こんなこともできる…、と。

実際やってみていきなり効果が感じられたので、
これは自分にはかなり使えると思いました。
以前と比べて生活する上で気が楽になったように思います。

あとはこれを継続できるかが大事なんだろうなと思います。



◆「インナーチャイルド」

ここで言う「インナーチャイルド」とは「子供のあなた」(p.169)のことだそうで、
それをちゃんとかわいがってあげたほうがいいということです。
そんな子供のような欲求にも耳を傾けて、行動するということですね。
子供に返る時間があってもよいのだということです。
いつも気が抜けない状態では息が詰まってしまいますしね。

あとは、自分の中の「インナーチャイルド」を
呼び出してみるという訓練方法もありました。(p.177)
子供の頃の自分をイメージして、その子がなんていってるか、
何か一緒にやりたいことがあるか聞いてみるという方法です。

ちょっとこれはなかなか難しかったのですが、まあ、
自分の中の子供は多少贅沢がしたいそうです。
いや、贅沢っていうか、世間一般と同じように普通に暮らしたいそうです。
缶ジュースが気軽に買えるくらいの経済状態を求めているようです。

ああ、これが僕の本心なんだな、って思いました。
なんか単純で分かりやすい欲求ですね。

自分の欲求を押し殺しすぎているとその子は本当に何も言ってくれないそうです。
単純でしたが、何か出てきただけよかったんだなと思ってます。

多分もっと聞いていくと色々出てくるんじゃないかと思います。
それはまた今度。

ところで初めはこの手法、「呼び出す」という言葉で死んだ人を呼び出すイメージと
つながってしまい、どこかオカルトっぽい雰囲気だなぁと思ってしまいました。
でも、これは実際のところ過去の自分を見つめる作業なわけですし、
子供の言ってることから、「あ、自分はこれがしたかったんだな」と思えれば、
それが自分の欲求を押し殺してしまわないためのきっかけになるわけなので
多分関係ないだろうと思っています。





そのほかにもいろいろありますが、いろいろありすぎて書き切れません。
特に自己効力感を高めるトレーニングを継続して頑張りたいと思います。

前回に引き続きまた長くなってしまいましたが、目を通してくださった方には厚く御礼申し上げます。

そして、就職前にこうして色々考え、行動する時間がとれたことを
本当にありがたく思っています。
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『「自分のために生きていける」ということ』を読んで 2

2011年07月18日
◆「偽りの自己」のできあがり方

自分を否定してしまう考え方や、生き生きできない状態といったものの根本原因は、
この「偽りの自己」を作り上げてしまったことです。

この原因としてはまず親があるのかもしれません。
また、僕の場合は親が信奉する宗教も絡んでいました。

そしてそれが自尊心を低くする原因になってしまっており、
ひいてはそれが生き生きと生活したり人間関係を築いたりする上での障害となっていたのです。



◆自己肯定感を高めるトレーニング

次の記事で詳しく書きますが、
とにかく自分自身に自分を肯定する言葉をかけてあげるということです。
これがやってみるとなかなか恥ずかしいんですが、
意外なことに、もうすでに役に立っています。

そして、自分を肯定する、つまり自分はこれでいいんだ、という前提があってはじめて
生き生きと毎日の生活を送れるのだなという実感を少し感じつつあります。



◆親密さ

著者は「対等であることは二人の人間が親密であることの必須要件です」(p.219)
と述べていて、これが、「自己主張」と「他者承認」のバランスの取れた状態、
ということのようです。

どちらも「自分を認めてもらいたい」と思う気持ちがあるわけですから、
うまくバランスが取れると親密な関係になれるわけですね。
ちょっとわがままを言うときもあれば、相手に合わせてあげることもある、
そういうことだと思います。

バランスが大事と言われれば当たり前のようですが、自分は言われないと気づかなかったです。
自分の場合は明らかに「自己主張」が足りず、
結局相手もそれに戸惑ってしまい、なかなかよい関係を築けない状態だったと思います。
これからは日常生活でも意識して自分の気持ちや意見をしっかり言っていきたいと思います。



◆その他

僕には、自分を規則で縛ってしまうという依存もあったことに気づきました。
この本を読んで、まず最初に規則があるというわけではなく、
まずはそれぞれ自分のやりたいことをやって生き生きと生活するわけですが、
そこで問題が生じてしまうので、それを解決するために規則があるのだと再認識しました。
とにかく自分のやりたいことを極力尊重するのが大前提なのだと思いました。



細かい点は次の記事に書きますが、書いてみるとかなり長くなってしまいました。

『「自分のために生きていける」ということ』を読んで 1

2011年07月18日
最近電車の中とか公園とかで本ばかり読んでます。
で、また感想文を書きたくなりました、というより、書かなければならなくなりました。



今回は、『「自分のために生きていける」ということ―寂しくて、退屈な人たちへ』(斎藤 学)です。
「自分のために生きる」ことはちょうどここ1年で意識しはじめたことだったので、
その題名やレビューに興味を引かれて某Amazonで注文しました。

同時期に30冊近く買ってしまって(笑)そのうちまだ10冊程度しか読んでいないので、
引っ越しまでの時間にと思い、気になる順に読んでいます。

最初は他の本を読んでいたのですが、読んでいるうちに
この本がなぜかどうしても気になってきて、先週読みました。

そして読んでみると、この本は自分にとって「人生にイエス」の本並の衝撃でした。

生き生きしながら生活を送っている人といまいちな自分との決定的な違いが何なのかを見出し、
さらにその解決の糸口まで知ることができたのです。
実際に、この本を読み進めるうちに気分も楽になってきました。



◆この本について

この本がどういう本なのかを簡単に言うと、
アルコール依存など何かの依存症やアダルトチルドレンといったことの根本原因や、
その解決策の案を提示してくれている本です。

ここで提示されている問題の原因と解決方法は一応筋が通っていると思いましたし、
自分のことと重ね合わせても納得できることがたくさんありました。

これまで自分は依存症ではないと思っていましたが、
本を読む限り当てはまること色々とがあったのです。
自分はもしかしたらエホバの証人依存症だったのかもしれません。
そして母親をはじめとする他の人から受け入れてもらうことへの依存症だったのかもしれません。

また、以前から自分もアダルトチルドレンっぽいかなあと思っていましたし、
実際この本を読むとかなりそうらしいと思えてきました。



「それでも人生にイエスと言う」に付け足しておきたいこと…
  自分の「欲望」を大事にすること


この本では、生きるか死ぬかという問題がほぼなくなった現代に必要なこと、
つまり、自分の「欲望」を大事にして生きることを勧めています。

実はちょうど、「人生にイエス」の本を読んだあとに別の本で
「人生の目的は人生を楽しむことだ」と書かれているのを読み、
『そうだ、これを「人生にイエス」にどうしても付け足しておきたい!』
と思っていたところだったんです。

きっとこの「楽しむ」「欲望を大事にする」のは「人生にイエス」のその先の段階なんですね。
「人生にイエス」を読んだ後にこの「自分のために生きていける」の本を読んで
ちょうどよかったと思います。



ということで、自分にとってかなり大事な本だと思ったので、感想を書くことにしました。

次の記事で、この本を読んで特に印象に残った点を挙げ、
その次の記事でさらに詳細を書いていこうと思います。

「それでも人生にイエスと言う」を読んで 4

2011年06月25日
「解説 フランクルの実存思想」を読んでの感想



◆「意味への意思」が満たされればすべてが満たされる

ということだと思ったのですが、合っているかは分かりません。
でも、読んだところによると、「意味への意思」(実存的欲求)は
ほかの二つの意思「快楽への意思」(生理的欲求)と「力への意思」(社会的欲求)
よりも根本的な欲求だということです。

この「意味への意思」は、「人生は自分に何を期待しているのか」と問うことで
実現できるわけです。

普通に生きているとついつい他の2つである「快楽」「力」を求めがちです。
でも、その2つを得ても何か足りないと思う人もいるという事実は、
この「意味」が本当に大事だということの裏付けの一つになると思います。



◆「良心」=「人間の外にあるもの」?

「無意識」とか「超越」とか色々難しそうな言葉が出てきて、
このへんはなんだか分からなくなってきました。

でも感想文「1」で書いたような、何か大きなもの、
この本でいう「人間を超えたもの」が存在しているというのは、
納得できるような気がします。

この「良心」こそがきっと「人生は自分になにを期待しているか」と
問うたときに答えを導き出してくれる正体なんじゃないかな、と思っています。
(ここは完全に自分の都合のいいように解釈してますが。)




感想のおわりに…。

この本で、人生の意味は何か、について一つのぶれない基準を学んだと思います。
これからもこの本と多少違った考え方とも接する機会があるとは思いますが、
そんなときはこの本でいう人生の意味の考え方と比べたりしながら
少しずつ理解を深め、自分のものにしていきたいと思います。



この本を読むと当時はニヒリズムが流行っていたようです(よね?)。
ニヒリズムに対抗すべく書かれた本だと思います。

今の日本では基本的に、消極的なことを言ってしまうといろいろと通用しないので
一見ニヒリズムなんて全然関係ないようにも思えます。

でも、残念ながら自分たちを取りまく環境はまさに関係大有りで、
ニヒリズムというかニヒリズムにより後ろ向きになっても仕方がないような材料、
例えば政治の不安定や不況、格差の問題、災害などが揃っています。

外側だけ元気なように見せても実は内側は消極的思考に侵されている、
そんな人が今の日本でもきっと少なくないんじゃないかと思います。

それでも人生にイエスと言える理由、
それをこの本から教えてもらったのは本当に嬉しいことです。

もし僕がこれから
変えられない過去や将来の不安に悩むとき、
人生が八方ふさがりに思えるとき、
悲しみに暮れるとき、
生きていて何のいいことがあるのかと考えるときには
「人生は僕になにを期待しているのだろうか」
と僕自身に問いかけます。



長文・駄文にお付き合い頂き、本当にありがとうございました。

「それでも人生にイエスと言う」を読んで 3

2011年06月25日
(3, 4 は実は少し前に書いていましたが、今日もう一度読み直してアップしました。
 それで、記事中の「今日」は少し前、ということになります。)



「Ⅲ 人生にイエスと言う」を読んでの感想

この部分では強制収容所での出来事などが多く取りあげられていましたが、
エホバの証人をやめて自由をかみしめながら生きている今、
どうしても強制収容所をエホバの証人と重ねて考えながら読んでしまいました。

そうして読むとやはり色々自分に当てはまることや学べることがあったりして、
その観点で読んだのは正解だったと思いました。



◆「退行」

強制収容所では自分と周りの人の生命を守ることにしか関心が向かなくなります。
内面的な水準が下がってしまったことから、ある精神科医はこれを「退行」と表現したそうです。
でも、実際は強制収容所で内面的に進行して大きな人間に成長したケースも多いといいます。

エホバの証人も、確かに関心の対象がかなり限られてしまう状況にあったわけですが、
だからといって必ずしも内面の状態が衰えてしまったというわけではないと言えると思います。
エホバの証人の教えの中で使える部分も確かにありますし、
苦悩の中から学ばされたこともいろいろあります。
そういう意味で、自分が何か特別に内面という点で劣っているように感じる必要はないと思えました。



◆「あと六週間たったら戦争は終わる。」

著者が言いたかったこととは多分ちょっと離れてしまいますが、
聖書の「何度も幻滅した心は病気になる」という言葉が出てきました。
(新世界訳の「延期された期待は心を病ませる」ですね、多分。)

あとどれくらいで自由になれる、といううわさが強制収容所内で流れ、
それが実現しなかったたびにやはり幻滅が深くなったそうです。

これはまたエホバの証人の教えでも経験したことですが、
耐えればよい期日が何度も延ばされるというのは
やっぱり人をとてもがっかりさせ、気力をなくさせるものです。
「きっと自由になれます。いつになるか分からないけど。」というのでは、
心の支えにはならないことでしょう。



◆解放

ここが特にエホバの証人をやめた今の自分と重ね合わせて考えてしまったところです。
解放されるということに伴う様々なことが少し今の自分に当てはまるような気がします。

 解放を喜べるには何日もかかる
 喜ぶと言うことを学び直す必要がある
 またもう一度苦悩を学ばなければならないこともある

特に上に挙げたような言葉に共感できます。

今はエホバの証人をやめたことを心から喜べますし、正しい判断をしたと思えます。
でも、1年くらい前は「これでいいのだろうか」という気持ちもほんの数%でしたがありました。

また、今まで我慢してきたことを実際にやろうとすると、
本当は楽しいはずなのに楽しめなかったりすることもありました。

そして、エホバの証人であったゆえの苦悩も
多少ではありますが未だに尾を引いています。

もちろん強制収容所とは比べものにならないくらい小さな事だと思いますが、
それに似たようなことがまたここにあるのは事実のような気がします。
それだけこの本が自分にとって必要だったということだと思います。



◆誓い

著者は、生き延びたことを恩寵と考え、その恩寵にふさわしいものになり、
少しでもそれに見合うようになる義務があると考えたと述べています。

自分も、今の状況の中で今の自由を最大限に生かして
人生からの問いに答えられるよう精一杯努力したいと思います。


また、新しい状況になって失望した人がそれを克服するには、
「謙虚さ」と「勇気」が必要だと述べています。
すべてを受け入れる謙虚さと、
例えば神以外のものを恐れなくてもよいというような勇気。
(自分の場合は多数の日本人と同じく神すら恐れなくてよくなりましたが。)

確かに状況を受け入れたり、変えられるものを変えるには、
謙虚さと勇気が必要だと思います。
すべてを受け入れるにはまだまだ時間がかかると思いますが、
過去を苦々しく思うことはあまりないので、だいぶ受け入れつつあると思います。
そして、今できることをしようと実際行動に移しているので
ある程度は勇気を出して行動をしていると思います。

今の自分のやっていることが(少なくともこの本の著者の意図を基準にすれば)
間違っていないのだなという元気をもらえました。


そして、「パンがある、ベッドで寝られる、点呼にたたなくてよい、
死の危険から解放されているといった状況を感謝を持って受け止める」という誓い。

本当に今経験できている自由が素晴らしいことだということを、
一時も忘れたくはないと思います。

今日ハローワークの待ち時間に読んだ本で「3秒でハッピーになる名言セラピー」
というのがあるのですが、その中で繰り返し「ありがとう」と言ってみようと
書かれていました。とにかく全部のことに「ありがとう」。
「ありがとう」とつぶやきながら掃除するんだそうです。

そして帰りに、見かけた色々なものに向かってもしありがとうを言うとしたら、
と考えてましたが、そうすると、
不思議と目にするすべてのものが当たり前じゃなく見えてきました。
それがあって(またはその人がいて)本当にありがたい、幸せだと思えてきました。

いつまでもこの感謝の気持ちを忘れずにいたいと思います。



◆永遠

日常は永遠になる。
日常は歴史になる。
まだ起こっていないことを起こす責任がある。
その責任はとても素晴らしいものでもある。

この本からそういうメッセージを受け取りました。
自分や自分の周りの人が瞬間ごとの自分の決断にかかっていると考えると、
そして、自分が行動を起こさなければ消えて存在しなかったかもしれないものを
自分が行動することで現実にすることができる、と考えると
人生に問われていること(責任)がとても有意義なことに思えてきます。

その責任をみごと果たしたのが強制収容所の囚人達でした。
今の自分はそれと比べれば大して苦しい状況にはありません。
そう考えれば、自分も「人生にイエスと言う」ことができます。
どんなに苦しいときでも、そうできると思います。

(4へ続く)
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