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2024年10月07日
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『「自分のために生きていける」ということ』を読んで 1
2011年07月18日
最近電車の中とか公園とかで本ばかり読んでます。
で、また感想文を書きたくなりました、というより、書かなければならなくなりました。
今回は、『「自分のために生きていける」ということ―寂しくて、退屈な人たちへ』(斎藤 学)です。
「自分のために生きる」ことはちょうどここ1年で意識しはじめたことだったので、
その題名やレビューに興味を引かれて某Amazonで注文しました。
同時期に30冊近く買ってしまって(笑)そのうちまだ10冊程度しか読んでいないので、
引っ越しまでの時間にと思い、気になる順に読んでいます。
最初は他の本を読んでいたのですが、読んでいるうちに
この本がなぜかどうしても気になってきて、先週読みました。
そして読んでみると、この本は自分にとって「人生にイエス」の本並の衝撃でした。
生き生きしながら生活を送っている人といまいちな自分との決定的な違いが何なのかを見出し、
さらにその解決の糸口まで知ることができたのです。
実際に、この本を読み進めるうちに気分も楽になってきました。
◆この本について
この本がどういう本なのかを簡単に言うと、
アルコール依存など何かの依存症やアダルトチルドレンといったことの根本原因や、
その解決策の案を提示してくれている本です。
ここで提示されている問題の原因と解決方法は一応筋が通っていると思いましたし、
自分のことと重ね合わせても納得できることがたくさんありました。
これまで自分は依存症ではないと思っていましたが、
本を読む限り当てはまること色々とがあったのです。
自分はもしかしたらエホバの証人依存症だったのかもしれません。
そして母親をはじめとする他の人から受け入れてもらうことへの依存症だったのかもしれません。
また、以前から自分もアダルトチルドレンっぽいかなあと思っていましたし、
実際この本を読むとかなりそうらしいと思えてきました。
◆「それでも人生にイエスと言う」に付け足しておきたいこと…
自分の「欲望」を大事にすること
この本では、生きるか死ぬかという問題がほぼなくなった現代に必要なこと、
つまり、自分の「欲望」を大事にして生きることを勧めています。
実はちょうど、「人生にイエス」の本を読んだあとに別の本で
「人生の目的は人生を楽しむことだ」と書かれているのを読み、
『そうだ、これを「人生にイエス」にどうしても付け足しておきたい!』
と思っていたところだったんです。
きっとこの「楽しむ」「欲望を大事にする」のは「人生にイエス」のその先の段階なんですね。
「人生にイエス」を読んだ後にこの「自分のために生きていける」の本を読んで
ちょうどよかったと思います。
ということで、自分にとってかなり大事な本だと思ったので、感想を書くことにしました。
次の記事で、この本を読んで特に印象に残った点を挙げ、
その次の記事でさらに詳細を書いていこうと思います。
で、また感想文を書きたくなりました、というより、書かなければならなくなりました。
今回は、『「自分のために生きていける」ということ―寂しくて、退屈な人たちへ』(斎藤 学)です。
「自分のために生きる」ことはちょうどここ1年で意識しはじめたことだったので、
その題名やレビューに興味を引かれて某Amazonで注文しました。
同時期に30冊近く買ってしまって(笑)そのうちまだ10冊程度しか読んでいないので、
引っ越しまでの時間にと思い、気になる順に読んでいます。
最初は他の本を読んでいたのですが、読んでいるうちに
この本がなぜかどうしても気になってきて、先週読みました。
そして読んでみると、この本は自分にとって「人生にイエス」の本並の衝撃でした。
生き生きしながら生活を送っている人といまいちな自分との決定的な違いが何なのかを見出し、
さらにその解決の糸口まで知ることができたのです。
実際に、この本を読み進めるうちに気分も楽になってきました。
◆この本について
この本がどういう本なのかを簡単に言うと、
アルコール依存など何かの依存症やアダルトチルドレンといったことの根本原因や、
その解決策の案を提示してくれている本です。
ここで提示されている問題の原因と解決方法は一応筋が通っていると思いましたし、
自分のことと重ね合わせても納得できることがたくさんありました。
これまで自分は依存症ではないと思っていましたが、
本を読む限り当てはまること色々とがあったのです。
自分はもしかしたらエホバの証人依存症だったのかもしれません。
そして母親をはじめとする他の人から受け入れてもらうことへの依存症だったのかもしれません。
また、以前から自分もアダルトチルドレンっぽいかなあと思っていましたし、
実際この本を読むとかなりそうらしいと思えてきました。
◆「それでも人生にイエスと言う」に付け足しておきたいこと…
自分の「欲望」を大事にすること
この本では、生きるか死ぬかという問題がほぼなくなった現代に必要なこと、
つまり、自分の「欲望」を大事にして生きることを勧めています。
実はちょうど、「人生にイエス」の本を読んだあとに別の本で
「人生の目的は人生を楽しむことだ」と書かれているのを読み、
『そうだ、これを「人生にイエス」にどうしても付け足しておきたい!』
と思っていたところだったんです。
きっとこの「楽しむ」「欲望を大事にする」のは「人生にイエス」のその先の段階なんですね。
「人生にイエス」を読んだ後にこの「自分のために生きていける」の本を読んで
ちょうどよかったと思います。
ということで、自分にとってかなり大事な本だと思ったので、感想を書くことにしました。
次の記事で、この本を読んで特に印象に残った点を挙げ、
その次の記事でさらに詳細を書いていこうと思います。
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「それでも人生にイエスと言う」を読んで 4
2011年06月25日
「解説 フランクルの実存思想」を読んでの感想
◆「意味への意思」が満たされればすべてが満たされる
ということだと思ったのですが、合っているかは分かりません。
でも、読んだところによると、「意味への意思」(実存的欲求)は
ほかの二つの意思「快楽への意思」(生理的欲求)と「力への意思」(社会的欲求)
よりも根本的な欲求だということです。
この「意味への意思」は、「人生は自分に何を期待しているのか」と問うことで
実現できるわけです。
普通に生きているとついつい他の2つである「快楽」「力」を求めがちです。
でも、その2つを得ても何か足りないと思う人もいるという事実は、
この「意味」が本当に大事だということの裏付けの一つになると思います。
◆「良心」=「人間の外にあるもの」?
「無意識」とか「超越」とか色々難しそうな言葉が出てきて、
このへんはなんだか分からなくなってきました。
でも感想文「1」で書いたような、何か大きなもの、
この本でいう「人間を超えたもの」が存在しているというのは、
納得できるような気がします。
この「良心」こそがきっと「人生は自分になにを期待しているか」と
問うたときに答えを導き出してくれる正体なんじゃないかな、と思っています。
(ここは完全に自分の都合のいいように解釈してますが。)
感想のおわりに…。
この本で、人生の意味は何か、について一つのぶれない基準を学んだと思います。
これからもこの本と多少違った考え方とも接する機会があるとは思いますが、
そんなときはこの本でいう人生の意味の考え方と比べたりしながら
少しずつ理解を深め、自分のものにしていきたいと思います。
この本を読むと当時はニヒリズムが流行っていたようです(よね?)。
ニヒリズムに対抗すべく書かれた本だと思います。
今の日本では基本的に、消極的なことを言ってしまうといろいろと通用しないので
一見ニヒリズムなんて全然関係ないようにも思えます。
でも、残念ながら自分たちを取りまく環境はまさに関係大有りで、
ニヒリズムというかニヒリズムにより後ろ向きになっても仕方がないような材料、
例えば政治の不安定や不況、格差の問題、災害などが揃っています。
外側だけ元気なように見せても実は内側は消極的思考に侵されている、
そんな人が今の日本でもきっと少なくないんじゃないかと思います。
それでも人生にイエスと言える理由、
それをこの本から教えてもらったのは本当に嬉しいことです。
もし僕がこれから
変えられない過去や将来の不安に悩むとき、
人生が八方ふさがりに思えるとき、
悲しみに暮れるとき、
生きていて何のいいことがあるのかと考えるときには
「人生は僕になにを期待しているのだろうか」
と僕自身に問いかけます。
長文・駄文にお付き合い頂き、本当にありがとうございました。
◆「意味への意思」が満たされればすべてが満たされる
ということだと思ったのですが、合っているかは分かりません。
でも、読んだところによると、「意味への意思」(実存的欲求)は
ほかの二つの意思「快楽への意思」(生理的欲求)と「力への意思」(社会的欲求)
よりも根本的な欲求だということです。
この「意味への意思」は、「人生は自分に何を期待しているのか」と問うことで
実現できるわけです。
普通に生きているとついつい他の2つである「快楽」「力」を求めがちです。
でも、その2つを得ても何か足りないと思う人もいるという事実は、
この「意味」が本当に大事だということの裏付けの一つになると思います。
◆「良心」=「人間の外にあるもの」?
「無意識」とか「超越」とか色々難しそうな言葉が出てきて、
このへんはなんだか分からなくなってきました。
でも感想文「1」で書いたような、何か大きなもの、
この本でいう「人間を超えたもの」が存在しているというのは、
納得できるような気がします。
この「良心」こそがきっと「人生は自分になにを期待しているか」と
問うたときに答えを導き出してくれる正体なんじゃないかな、と思っています。
(ここは完全に自分の都合のいいように解釈してますが。)
感想のおわりに…。
この本で、人生の意味は何か、について一つのぶれない基準を学んだと思います。
これからもこの本と多少違った考え方とも接する機会があるとは思いますが、
そんなときはこの本でいう人生の意味の考え方と比べたりしながら
少しずつ理解を深め、自分のものにしていきたいと思います。
この本を読むと当時はニヒリズムが流行っていたようです(よね?)。
ニヒリズムに対抗すべく書かれた本だと思います。
今の日本では基本的に、消極的なことを言ってしまうといろいろと通用しないので
一見ニヒリズムなんて全然関係ないようにも思えます。
でも、残念ながら自分たちを取りまく環境はまさに関係大有りで、
ニヒリズムというかニヒリズムにより後ろ向きになっても仕方がないような材料、
例えば政治の不安定や不況、格差の問題、災害などが揃っています。
外側だけ元気なように見せても実は内側は消極的思考に侵されている、
そんな人が今の日本でもきっと少なくないんじゃないかと思います。
それでも人生にイエスと言える理由、
それをこの本から教えてもらったのは本当に嬉しいことです。
もし僕がこれから
変えられない過去や将来の不安に悩むとき、
人生が八方ふさがりに思えるとき、
悲しみに暮れるとき、
生きていて何のいいことがあるのかと考えるときには
「人生は僕になにを期待しているのだろうか」
と僕自身に問いかけます。
長文・駄文にお付き合い頂き、本当にありがとうございました。
「それでも人生にイエスと言う」を読んで 3
2011年06月25日
(3, 4 は実は少し前に書いていましたが、今日もう一度読み直してアップしました。
それで、記事中の「今日」は少し前、ということになります。)
「Ⅲ 人生にイエスと言う」を読んでの感想
この部分では強制収容所での出来事などが多く取りあげられていましたが、
エホバの証人をやめて自由をかみしめながら生きている今、
どうしても強制収容所をエホバの証人と重ねて考えながら読んでしまいました。
そうして読むとやはり色々自分に当てはまることや学べることがあったりして、
その観点で読んだのは正解だったと思いました。
◆「退行」
強制収容所では自分と周りの人の生命を守ることにしか関心が向かなくなります。
内面的な水準が下がってしまったことから、ある精神科医はこれを「退行」と表現したそうです。
でも、実際は強制収容所で内面的に進行して大きな人間に成長したケースも多いといいます。
エホバの証人も、確かに関心の対象がかなり限られてしまう状況にあったわけですが、
だからといって必ずしも内面の状態が衰えてしまったというわけではないと言えると思います。
エホバの証人の教えの中で使える部分も確かにありますし、
苦悩の中から学ばされたこともいろいろあります。
そういう意味で、自分が何か特別に内面という点で劣っているように感じる必要はないと思えました。
◆「あと六週間たったら戦争は終わる。」
著者が言いたかったこととは多分ちょっと離れてしまいますが、
聖書の「何度も幻滅した心は病気になる」という言葉が出てきました。
(新世界訳の「延期された期待は心を病ませる」ですね、多分。)
あとどれくらいで自由になれる、といううわさが強制収容所内で流れ、
それが実現しなかったたびにやはり幻滅が深くなったそうです。
これはまたエホバの証人の教えでも経験したことですが、
耐えればよい期日が何度も延ばされるというのは
やっぱり人をとてもがっかりさせ、気力をなくさせるものです。
「きっと自由になれます。いつになるか分からないけど。」というのでは、
心の支えにはならないことでしょう。
◆解放
ここが特にエホバの証人をやめた今の自分と重ね合わせて考えてしまったところです。
解放されるということに伴う様々なことが少し今の自分に当てはまるような気がします。
解放を喜べるには何日もかかる
喜ぶと言うことを学び直す必要がある
またもう一度苦悩を学ばなければならないこともある
特に上に挙げたような言葉に共感できます。
今はエホバの証人をやめたことを心から喜べますし、正しい判断をしたと思えます。
でも、1年くらい前は「これでいいのだろうか」という気持ちもほんの数%でしたがありました。
また、今まで我慢してきたことを実際にやろうとすると、
本当は楽しいはずなのに楽しめなかったりすることもありました。
そして、エホバの証人であったゆえの苦悩も
多少ではありますが未だに尾を引いています。
もちろん強制収容所とは比べものにならないくらい小さな事だと思いますが、
それに似たようなことがまたここにあるのは事実のような気がします。
それだけこの本が自分にとって必要だったということだと思います。
◆誓い
著者は、生き延びたことを恩寵と考え、その恩寵にふさわしいものになり、
少しでもそれに見合うようになる義務があると考えたと述べています。
自分も、今の状況の中で今の自由を最大限に生かして
人生からの問いに答えられるよう精一杯努力したいと思います。
また、新しい状況になって失望した人がそれを克服するには、
「謙虚さ」と「勇気」が必要だと述べています。
すべてを受け入れる謙虚さと、
例えば神以外のものを恐れなくてもよいというような勇気。
(自分の場合は多数の日本人と同じく神すら恐れなくてよくなりましたが。)
確かに状況を受け入れたり、変えられるものを変えるには、
謙虚さと勇気が必要だと思います。
すべてを受け入れるにはまだまだ時間がかかると思いますが、
過去を苦々しく思うことはあまりないので、だいぶ受け入れつつあると思います。
そして、今できることをしようと実際行動に移しているので
ある程度は勇気を出して行動をしていると思います。
今の自分のやっていることが(少なくともこの本の著者の意図を基準にすれば)
間違っていないのだなという元気をもらえました。
そして、「パンがある、ベッドで寝られる、点呼にたたなくてよい、
死の危険から解放されているといった状況を感謝を持って受け止める」という誓い。
本当に今経験できている自由が素晴らしいことだということを、
一時も忘れたくはないと思います。
今日ハローワークの待ち時間に読んだ本で「3秒でハッピーになる名言セラピー」
というのがあるのですが、その中で繰り返し「ありがとう」と言ってみようと
書かれていました。とにかく全部のことに「ありがとう」。
「ありがとう」とつぶやきながら掃除するんだそうです。
そして帰りに、見かけた色々なものに向かってもしありがとうを言うとしたら、
と考えてましたが、そうすると、
不思議と目にするすべてのものが当たり前じゃなく見えてきました。
それがあって(またはその人がいて)本当にありがたい、幸せだと思えてきました。
いつまでもこの感謝の気持ちを忘れずにいたいと思います。
◆永遠
日常は永遠になる。
日常は歴史になる。
まだ起こっていないことを起こす責任がある。
その責任はとても素晴らしいものでもある。
この本からそういうメッセージを受け取りました。
自分や自分の周りの人が瞬間ごとの自分の決断にかかっていると考えると、
そして、自分が行動を起こさなければ消えて存在しなかったかもしれないものを
自分が行動することで現実にすることができる、と考えると
人生に問われていること(責任)がとても有意義なことに思えてきます。
その責任をみごと果たしたのが強制収容所の囚人達でした。
今の自分はそれと比べれば大して苦しい状況にはありません。
そう考えれば、自分も「人生にイエスと言う」ことができます。
どんなに苦しいときでも、そうできると思います。
(4へ続く)
それで、記事中の「今日」は少し前、ということになります。)
「Ⅲ 人生にイエスと言う」を読んでの感想
この部分では強制収容所での出来事などが多く取りあげられていましたが、
エホバの証人をやめて自由をかみしめながら生きている今、
どうしても強制収容所をエホバの証人と重ねて考えながら読んでしまいました。
そうして読むとやはり色々自分に当てはまることや学べることがあったりして、
その観点で読んだのは正解だったと思いました。
◆「退行」
強制収容所では自分と周りの人の生命を守ることにしか関心が向かなくなります。
内面的な水準が下がってしまったことから、ある精神科医はこれを「退行」と表現したそうです。
でも、実際は強制収容所で内面的に進行して大きな人間に成長したケースも多いといいます。
エホバの証人も、確かに関心の対象がかなり限られてしまう状況にあったわけですが、
だからといって必ずしも内面の状態が衰えてしまったというわけではないと言えると思います。
エホバの証人の教えの中で使える部分も確かにありますし、
苦悩の中から学ばされたこともいろいろあります。
そういう意味で、自分が何か特別に内面という点で劣っているように感じる必要はないと思えました。
◆「あと六週間たったら戦争は終わる。」
著者が言いたかったこととは多分ちょっと離れてしまいますが、
聖書の「何度も幻滅した心は病気になる」という言葉が出てきました。
(新世界訳の「延期された期待は心を病ませる」ですね、多分。)
あとどれくらいで自由になれる、といううわさが強制収容所内で流れ、
それが実現しなかったたびにやはり幻滅が深くなったそうです。
これはまたエホバの証人の教えでも経験したことですが、
耐えればよい期日が何度も延ばされるというのは
やっぱり人をとてもがっかりさせ、気力をなくさせるものです。
「きっと自由になれます。いつになるか分からないけど。」というのでは、
心の支えにはならないことでしょう。
◆解放
ここが特にエホバの証人をやめた今の自分と重ね合わせて考えてしまったところです。
解放されるということに伴う様々なことが少し今の自分に当てはまるような気がします。
解放を喜べるには何日もかかる
喜ぶと言うことを学び直す必要がある
またもう一度苦悩を学ばなければならないこともある
特に上に挙げたような言葉に共感できます。
今はエホバの証人をやめたことを心から喜べますし、正しい判断をしたと思えます。
でも、1年くらい前は「これでいいのだろうか」という気持ちもほんの数%でしたがありました。
また、今まで我慢してきたことを実際にやろうとすると、
本当は楽しいはずなのに楽しめなかったりすることもありました。
そして、エホバの証人であったゆえの苦悩も
多少ではありますが未だに尾を引いています。
もちろん強制収容所とは比べものにならないくらい小さな事だと思いますが、
それに似たようなことがまたここにあるのは事実のような気がします。
それだけこの本が自分にとって必要だったということだと思います。
◆誓い
著者は、生き延びたことを恩寵と考え、その恩寵にふさわしいものになり、
少しでもそれに見合うようになる義務があると考えたと述べています。
自分も、今の状況の中で今の自由を最大限に生かして
人生からの問いに答えられるよう精一杯努力したいと思います。
また、新しい状況になって失望した人がそれを克服するには、
「謙虚さ」と「勇気」が必要だと述べています。
すべてを受け入れる謙虚さと、
例えば神以外のものを恐れなくてもよいというような勇気。
(自分の場合は多数の日本人と同じく神すら恐れなくてよくなりましたが。)
確かに状況を受け入れたり、変えられるものを変えるには、
謙虚さと勇気が必要だと思います。
すべてを受け入れるにはまだまだ時間がかかると思いますが、
過去を苦々しく思うことはあまりないので、だいぶ受け入れつつあると思います。
そして、今できることをしようと実際行動に移しているので
ある程度は勇気を出して行動をしていると思います。
今の自分のやっていることが(少なくともこの本の著者の意図を基準にすれば)
間違っていないのだなという元気をもらえました。
そして、「パンがある、ベッドで寝られる、点呼にたたなくてよい、
死の危険から解放されているといった状況を感謝を持って受け止める」という誓い。
本当に今経験できている自由が素晴らしいことだということを、
一時も忘れたくはないと思います。
今日ハローワークの待ち時間に読んだ本で「3秒でハッピーになる名言セラピー」
というのがあるのですが、その中で繰り返し「ありがとう」と言ってみようと
書かれていました。とにかく全部のことに「ありがとう」。
「ありがとう」とつぶやきながら掃除するんだそうです。
そして帰りに、見かけた色々なものに向かってもしありがとうを言うとしたら、
と考えてましたが、そうすると、
不思議と目にするすべてのものが当たり前じゃなく見えてきました。
それがあって(またはその人がいて)本当にありがたい、幸せだと思えてきました。
いつまでもこの感謝の気持ちを忘れずにいたいと思います。
◆永遠
日常は永遠になる。
日常は歴史になる。
まだ起こっていないことを起こす責任がある。
その責任はとても素晴らしいものでもある。
この本からそういうメッセージを受け取りました。
自分や自分の周りの人が瞬間ごとの自分の決断にかかっていると考えると、
そして、自分が行動を起こさなければ消えて存在しなかったかもしれないものを
自分が行動することで現実にすることができる、と考えると
人生に問われていること(責任)がとても有意義なことに思えてきます。
その責任をみごと果たしたのが強制収容所の囚人達でした。
今の自分はそれと比べれば大して苦しい状況にはありません。
そう考えれば、自分も「人生にイエスと言う」ことができます。
どんなに苦しいときでも、そうできると思います。
(4へ続く)
「それでも人生にイエスと言う」を読んで 2
2011年06月15日
「Ⅱ 病いを超えて」を読んでの感想
この部分では「創造価値」、「体験価値」、「態度価値」のうち、
特に「態度価値」に焦点が当てられていたと思います。
◆苦悩することで成長。苦悩を切望する状況
著者は、苦悩によって成長するという点を指摘しています。
自分がエホバの証人だった時に経験した苦悩を通じ、
エホバの証人ではない人とはまた何か違った価値観や感じ方を持っていると思いますし、
それがいつか何かに役に立つ可能性もあるのだな、と再認識しました。
強制収容所では食べるものなどについて心配しなければならず、
もっと人間らしい苦悩や問題、葛藤を経験できる状態を切望したといいます。
そう考えると、人間らしい悩みや問題を抱えること自体、
とても幸せなことだと思えてきます。
一方で安定した、なるべく心配のない状態を求めてしまう自分もいます。
確かに心配がなければないでいいのかもしれませんが、
このご時世何が起こるか分かりませんし、
安定なんて有って無いようなものですから
悩みがあるというのは幸せなのだという考え方を身につけておいたほうが幸せになれそうです。
同時に、本当に完全な安定を手に入れてしまったら、
それは果たして人間らしい状態なのだろうか、と考えさせられました。
課題に取り組んで解決していくことこそ人間らしいと思います。
◆「創造」「体験」では意味を見いだせない状況でも「態度」でなら意味を見いだせる
死ぬ直前でも人を気遣った広告デザイナーの話を読むと、
たとえ死が近くなってたいしたことができないような状況に思えても、
人間として素晴らしい態度でいることは本当に素晴らしい、意味のあることだと思えました。
また、「外面的な成功と内面的な成功」については、
「生きる意味を内面的に実現」すれば、それは確実に到達したものだ
ということが印象に残りました。
◆「世界全体は無意味か、それとも意味を超えているか」
これはこの本で取りあげられていた質問のうち、答えの出ていない質問です。
確かに「人生から問われている」なら「人生」のさらに上のレベルって?
と考えてしまいます。
著者によると、この質問のどちらを支持しようとも根拠は全くないというのです。
でもやはり自分としては後者のほうがいいと思います。
突き詰めればどうせなにもない、なんて考えてしまうのは
世界があまりにもったいない(いい表現が浮かばないです)と思うからです。
これはもういくら論理的に考えたからといって答えが出るわけではないので、
どちらを取るかは自由です。でも、やっぱり自分は「無意味」だとは思いたくないです。
(3へ続く)
この部分では「創造価値」、「体験価値」、「態度価値」のうち、
特に「態度価値」に焦点が当てられていたと思います。
◆苦悩することで成長。苦悩を切望する状況
著者は、苦悩によって成長するという点を指摘しています。
自分がエホバの証人だった時に経験した苦悩を通じ、
エホバの証人ではない人とはまた何か違った価値観や感じ方を持っていると思いますし、
それがいつか何かに役に立つ可能性もあるのだな、と再認識しました。
強制収容所では食べるものなどについて心配しなければならず、
もっと人間らしい苦悩や問題、葛藤を経験できる状態を切望したといいます。
そう考えると、人間らしい悩みや問題を抱えること自体、
とても幸せなことだと思えてきます。
一方で安定した、なるべく心配のない状態を求めてしまう自分もいます。
確かに心配がなければないでいいのかもしれませんが、
このご時世何が起こるか分かりませんし、
安定なんて有って無いようなものですから
悩みがあるというのは幸せなのだという考え方を身につけておいたほうが幸せになれそうです。
同時に、本当に完全な安定を手に入れてしまったら、
それは果たして人間らしい状態なのだろうか、と考えさせられました。
課題に取り組んで解決していくことこそ人間らしいと思います。
◆「創造」「体験」では意味を見いだせない状況でも「態度」でなら意味を見いだせる
死ぬ直前でも人を気遣った広告デザイナーの話を読むと、
たとえ死が近くなってたいしたことができないような状況に思えても、
人間として素晴らしい態度でいることは本当に素晴らしい、意味のあることだと思えました。
また、「外面的な成功と内面的な成功」については、
「生きる意味を内面的に実現」すれば、それは確実に到達したものだ
ということが印象に残りました。
◆「世界全体は無意味か、それとも意味を超えているか」
これはこの本で取りあげられていた質問のうち、答えの出ていない質問です。
確かに「人生から問われている」なら「人生」のさらに上のレベルって?
と考えてしまいます。
著者によると、この質問のどちらを支持しようとも根拠は全くないというのです。
でもやはり自分としては後者のほうがいいと思います。
突き詰めればどうせなにもない、なんて考えてしまうのは
世界があまりにもったいない(いい表現が浮かばないです)と思うからです。
これはもういくら論理的に考えたからといって答えが出るわけではないので、
どちらを取るかは自由です。でも、やっぱり自分は「無意味」だとは思いたくないです。
(3へ続く)
「それでも人生にイエスと言う」を読んで 1
2011年06月13日
まず始めに、「それでも人生にイエスと言う」(V・E・フランクル)を紹介して下さった
ゴリさんともう一人匿名の方に心から感謝したいと思います。
全体の感触としては、哲学とか形而上学といったものがあまり得意でない自分にとって
やや難しいかなという感じを受けました。
でも、一番いいたかったことはしっかり伝わってきたと思うので、
読んだことの価値はかなり大きかったと思います。
ここ2年くらいは全く死にたいという気持ちにならずにすんでいますが、
(ってことは2年以上前はやばかったんかいって話になりますがそこは置いといてもらって、笑)
またこれからいつか人生のどん底にいるように思えるときにはきっと役立つと思いました。
そういう意味でも、今回読んだことを一度は吸収するために、
思ったことはしっかり書いておきたいと思いました。
「Ⅰ 生きる意味と価値」を読んでの感想
◆人生の意味は問うてはいけない
人生の意味を問うことは、してはいけないことである、という話。
以前に幸せだったら問わないだろうと書いたのを思い出しましたが、
逆に問わないなら幸せを感じられるのかもしれないとも思えてきました。
今のところ、その両方が正しいような気がします。
一般的に快と不快では不快を感じることのほうが多いという統計。
辛いことがたくさんあっても別にいいんだ、
辛いことがいろいろあっても別に自分だけが
特に何かおかしいわけではないということです。
文章にはなかなかうまく表せないのですが、なんだかほっとしたような気がします。
…というのが、Ⅰを読んですぐ後に書いた感想でした。
◆「人生は私になにを期待しているか」
でも、本の最後の解説まで読んでやっとはっきりしてきたんですが
Ⅰの、いや、この本の一番大事なところは、
人生に「問われている」というところだと思いました。
はじめ読んだときは、「問われる」って何だ?と思いながら
あえて気にせず読み進んだんですが、本の最後まで読んでやっと解りました。
ここで挫折しなくてよかったです。(笑)
「われわれは人生から何を期待できるか」と自分を中心に考えると行き詰まりますが、
その考えを、「人生は何をわれわれから期待しているか」と
「コペルニクス的に」転回すると最悪の状況下でも耐えぬくことができるといいます。
「人生の目的は何か」、「なんで生きなきゃならないのか」、そんな問いはきっと
前者に入ってしまい、これは幾ら問い続けても問い続けても答えは出ません。
自分が期待しているだけでは、ひどい状況になれば挫折してしまうというのです。
そんなときこそ、「人生は私になにを期待しているか」
「人生のどのような仕事が私を待っているか」と問うようにしたいです。
そして、この問いをすることで「未来がないように思われても、こわくは」ない、
「現在がすべて」になるわけなので、今できることは何か、
今すべき事は何なのかということだけを考えればよくなるという部分も印象に残りました。
確かに、そのとおりだと思います。
「人生の目的は何か」っていうのは、将来を悲観するから出てくるのであって、
「人生は私になにを期待しているか」と問えばいまに集中でき、
自ずと「人生の目的は何かとも」考えなくなり、将来も怖くなくなります。
ここまで書きながら「人生は私になにを期待しているか」と自分に問うてみると、
なんだか今まで積み上げてきた人生観が
自分を温かく包んでくれるような気持ちになってきました。
今自分がすべき事、いや、できることが分かる質問のような気がします。
人生が求めてくることですから、自然に行動に移せるような気がします。
この問いの「人生」って何かとてもすごいものな気がしてます。
それは自分の中で作り上げてきた「人生」に対する理想なのかもしれません。
この問いを自分に投げかけると「こうあれたら一番いいな」と考えてしまうからです。
これがあとで出てくる「良心」に関係してくるのかな、と、今思いました。
◆活動範囲の広さじゃない
やっぱりすごいことをやっているように見える人って価値があるように見えます。
それと比べてしまうと自分ってどうなんだろうと思ってしまうこともあります。
でも、大切なのは「活動範囲において最善を尽くしているか」ということです。
「各人の具体的な活動範囲内では、一人一人の人間がかけがえなく代理不可能なのです。
だれもがそうです。」という言葉からとても元気をもらいました。
頭では分かっているんですが、つい普段の生活に追われると忘れがちです。
Ⅰでは特に「創造価値」、「体験価値」について知ることができました。
(2へ続く いつ書くか分かりませんが…笑)
ゴリさんともう一人匿名の方に心から感謝したいと思います。
全体の感触としては、哲学とか形而上学といったものがあまり得意でない自分にとって
やや難しいかなという感じを受けました。
でも、一番いいたかったことはしっかり伝わってきたと思うので、
読んだことの価値はかなり大きかったと思います。
ここ2年くらいは全く死にたいという気持ちにならずにすんでいますが、
(ってことは2年以上前はやばかったんかいって話になりますがそこは置いといてもらって、笑)
またこれからいつか人生のどん底にいるように思えるときにはきっと役立つと思いました。
そういう意味でも、今回読んだことを一度は吸収するために、
思ったことはしっかり書いておきたいと思いました。
「Ⅰ 生きる意味と価値」を読んでの感想
◆人生の意味は問うてはいけない
人生の意味を問うことは、してはいけないことである、という話。
以前に幸せだったら問わないだろうと書いたのを思い出しましたが、
逆に問わないなら幸せを感じられるのかもしれないとも思えてきました。
今のところ、その両方が正しいような気がします。
一般的に快と不快では不快を感じることのほうが多いという統計。
辛いことがたくさんあっても別にいいんだ、
辛いことがいろいろあっても別に自分だけが
特に何かおかしいわけではないということです。
文章にはなかなかうまく表せないのですが、なんだかほっとしたような気がします。
…というのが、Ⅰを読んですぐ後に書いた感想でした。
◆「人生は私になにを期待しているか」
でも、本の最後の解説まで読んでやっとはっきりしてきたんですが
Ⅰの、いや、この本の一番大事なところは、
人生に「問われている」というところだと思いました。
はじめ読んだときは、「問われる」って何だ?と思いながら
あえて気にせず読み進んだんですが、本の最後まで読んでやっと解りました。
ここで挫折しなくてよかったです。(笑)
「われわれは人生から何を期待できるか」と自分を中心に考えると行き詰まりますが、
その考えを、「人生は何をわれわれから期待しているか」と
「コペルニクス的に」転回すると最悪の状況下でも耐えぬくことができるといいます。
「人生の目的は何か」、「なんで生きなきゃならないのか」、そんな問いはきっと
前者に入ってしまい、これは幾ら問い続けても問い続けても答えは出ません。
自分が期待しているだけでは、ひどい状況になれば挫折してしまうというのです。
そんなときこそ、「人生は私になにを期待しているか」
「人生のどのような仕事が私を待っているか」と問うようにしたいです。
そして、この問いをすることで「未来がないように思われても、こわくは」ない、
「現在がすべて」になるわけなので、今できることは何か、
今すべき事は何なのかということだけを考えればよくなるという部分も印象に残りました。
確かに、そのとおりだと思います。
「人生の目的は何か」っていうのは、将来を悲観するから出てくるのであって、
「人生は私になにを期待しているか」と問えばいまに集中でき、
自ずと「人生の目的は何かとも」考えなくなり、将来も怖くなくなります。
ここまで書きながら「人生は私になにを期待しているか」と自分に問うてみると、
なんだか今まで積み上げてきた人生観が
自分を温かく包んでくれるような気持ちになってきました。
今自分がすべき事、いや、できることが分かる質問のような気がします。
人生が求めてくることですから、自然に行動に移せるような気がします。
この問いの「人生」って何かとてもすごいものな気がしてます。
それは自分の中で作り上げてきた「人生」に対する理想なのかもしれません。
この問いを自分に投げかけると「こうあれたら一番いいな」と考えてしまうからです。
これがあとで出てくる「良心」に関係してくるのかな、と、今思いました。
◆活動範囲の広さじゃない
やっぱりすごいことをやっているように見える人って価値があるように見えます。
それと比べてしまうと自分ってどうなんだろうと思ってしまうこともあります。
でも、大切なのは「活動範囲において最善を尽くしているか」ということです。
「各人の具体的な活動範囲内では、一人一人の人間がかけがえなく代理不可能なのです。
だれもがそうです。」という言葉からとても元気をもらいました。
頭では分かっているんですが、つい普段の生活に追われると忘れがちです。
Ⅰでは特に「創造価値」、「体験価値」について知ることができました。
(2へ続く いつ書くか分かりませんが…笑)